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Paris way essay collection


遠い夏の日の記憶


人の心の中にはいつまでも忘れられぬ記憶がある。楽しい記憶であったり悲しい記憶であったり、鮮明に残る記憶であっったり、朧気な記憶であったり、それはひと様々であるが、男にとって忘れえぬ記憶は今から四十数年前、男が始めて異性の身体に接した時のことである。

昭和四十四年。四国のとある温泉。うだるような暑さが続いていた八月、旅行最後の日のことだった。その日、宿泊先の旅館で夕飯を済ませ、その目的だけを達成しようと市街地へと足を運んだ。当時、そういった場所へ行くには、タクシーの運転手に尋ねるのが一般的で、乗り込んだタクシーに案内された場所は、一見すると民家と思えるような家の前だった。幾分および腰で玄関の引き戸を開けると、すぐに中年の女性が現れ、さあどうぞと、二階の部屋に案内された。

男はどんな女性が来るのかと、期待と不安が入り混じった複雑な気持ちで、部屋を見回した。部屋の広さは四畳半、真ん中には緋色の煎餅布団が一枚敷かれ、頭上には薄暗い裸電球がひとつの殺風景な部屋だった。ほどなくして、くだんの女性が現れた。一見若くて素人ぽい女性だった。男は戸惑いを覚えた。こんなところは、厚化粧のいかにもというような女性が現れるものだと、想像していたからだった。

しかし、くだんの女性はそんな男の思いなどまったく解すはずもなく、「脱いで、下だけでいいから」と事務的な口調で言うと、さっさと自分もスカートと下着を脱ぎ始めた。もちろん男とてこのまま引き下がるわけにもいかず、急いでズボンとパンツを脱ぎ、女性に命じられるまま布団の上に仰向けになった。

すぐに、女性の柔らかく冷たい手が、男のものにのびてきた。瞬く間に男のものは反応し、身体が震えだした。そんな男を見ながら、「あなた、もしかして初めてなの?」、女性が哀れむかのように耳元で囁いた。ここまで来てそんな事を偽っても仕方ないことであり、男はそうであることを正直に言った。

それから、最後まで女性にリードされながら、男は始めて異性との関係を終えたのである。いつかは通らなくてはならない道、罪悪感など全く無く、ただ好奇心を満たしたいがためのその時間は、男が次に進むため儀式でもあった。名前も知らぬ、もう二度と会うことなどないであろう女性が、そんな男の儀式の介添えを引き受けてくれたのだ。

身支度を終え、部屋から出る時に、「あなた上手だったわよ」と女性が男の背に掛けた言葉は、今も朧げに男の記憶に残っている。あの女性は今頃どうしているだろうか。もちろん、男との一夜など覚えているはずはないのだが、なぜか女性の幸せを祈らずにはいられない。