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Paris way essay collection


終活のお時間


戦後ベビーブームの時代に生を受けた男にとって、残された人生はいくばくも無いのだが、その時が来るまでの間、どのように日々を過ごして行くか、悩ましいものがある。ここまで、俗世間にどっぷりと浸かってきた身ゆえ、更に快楽を欲する姿勢はあまりにも見苦しく、さりとて、社会に何か貢献しょうなどとの殊勝な気分が湧いて来るような気配も感じない。

巷では、「終活」という語を耳にするようになった。言い出したのが、どこぞの葬儀会社だったか、生活プランナーと称する人だったか記憶にはないが、貧弱なオツムでは、終活は、自分が死んだ時の葬式のやり方を決めておくとか、遺産相続のための遺言書を作っておくとか、そういうことしか頭に浮かばないが、これらは、遺族次第で如何様にもなるわけで、いわば、お伽噺を創作するようなものだと思えなくもない。ともかく、今流行の「〇〇活」の言いまわし方が何ともあざとく思え、 無関心を装って来たのだが、ここに来て、子無し夫婦の宿命みたいなものが現実となり気持ちも揺らぎ始めていることは認めざるを得ない。
言うまでもないが、この社会は人間関係のしがらみの中にある。このしがらみから逃れようとするなら命を絶つということになるのだが、これでは話が前に進まない。従って、残された時間にこのしがらみとどう折り合いながら、潤いのある日々を過ごして行けるかが、「終活」を考える上で基本としなければならないと思う。

終末の時が近付き、身体も衰えが甚だしくなれば、普段の行動範囲はおのずと狭くなり、ちょっとした事にも煩わしさを覚えるようになる。これまで何事においても、人間関係を重視していたにもかかわらず、いつしか、親しくしてきた友人や知人が遠ざかっていることに気付く。人間社会は義理人情の世界だった。それを受け入れ、それが正しいと思いここまで来た。しかし、振り返って見ると、それはあくまで自らの保身に他ならなかった。
人は自らを中心に考える。たとえ、義理であっても、全ては同列ではなく、軽重を付け、差別化し、距離を取ろうとする。それゆえ、しがらみをどう整理して行くかを決めねばならない。もちろん、ここまで来て、これまでの人間関係をぶち壊し、敢えて波風が立つようなことはしたくないというのが本音にあるから、イメージ的にいうと 徐々に風化させて行くように考えれば良いのではないかと思う。

その前に、義理人情の典型である香典について、一つの例として挙げておきたい。身内に不幸があれば、日頃の付き合いの関係で香典を頂くことがあるのだが、その後に、その香典をくれた方の身内に不幸があれば、香典を出す。これが互助の精神の在り方であり、俗にいう「香典返し」は、香典を頂いたことへの感謝の形であって、このことを以って、互助が成立しているわけではない。なぜこのことを取り上げたかと言うと、自分が死んだ後、この互助を果たせない恐れがあるからだ。遺族が、故人に代わって、これを為してくれるとは限らない。そのためにも、人間関係はきちっとしておかねばならない。 人を整理するというと、抵抗を持たれるかも知れないが、遺された人達に負担や迷惑を掛けない。いわば、「立つ鳥跡を濁さず」であろうか。
終活で自分史を創るなんてこともあるらしいが、そんな時間があるのなら、友人や知人に今一度会って見ることをお勧めする。近況を報告し合うのも良いし、昔話をするのも良い。そしてこれからの付き合い方を話し合って見るのも良い。それは一つの区切りとなるはずだ。たとえそれが、今生の別れになろうとも、後悔無き終活となるだろう。