パリス(Paris)流エッセイOPEN 06:00~CLOSE 24:00

行政の長に求められる資質とは


首相であろうと知事であろうと、任半ばにしてその長としての地位を辞さねばならなかった人たちに欠けていたものは何か、「長たる能力に欠けていたから」、と一言でいえばそうなるのですが、ではその長たる能力とは何をいうのでしょうか、また、その能力よりも更に長に求められるものが存在しないのでしょうか?

今それを解き明かす一冊の本が手元にあります。宮城谷昌光さんの『春秋名臣列伝』がそれです。この本は、中国春秋時代〔紀元前770年頃~紀元前476年頃〕に登場した名臣たちが、如何にして国をたすけたのか、というノンフィクション集なのですが、その中に晋の国の師曠〔しこう〕が、晋の君主である平公に、「君主とはどうあるべきか」と問われたとき、師曠はこう答えています。

「君主とは身を清らかにしてよけいなことをせず、広く人民を愛するように努め、賢人を任用することをこころがけ、よく見、よく聞いて、世界を観察し、世間の流俗にまどわされず、側近の意見にふりまわされず、こだわりのない心で遠くを見、たれにもさえぎられぬように独り立ち、つねに臣下の功績をふりかえって考え、臣下に臨むべきである」

現代の行政の長を中国春秋時代の君主に置き換えるには、無理があるかも知れませんが、どんな組織であれ、そこには舵取り役の長が存在し、組織としての体を保っています。日本も日本国民全てを抱える巨大な組織であって、この組織の舵取り役が首相ということになります。また、都道府県の知事も、行政規模こそ違え、同じことがいえます。

ではその求められる能力とは、どんなことをいうのでしょうか。師曠の言にあてはめてみますと、

「長たる者は常に清廉を尊び、国民(県民)を深く愛し、これ等の民のための輝かしい未来を見据えた目標を樹て、それを為すために有能な人材を発掘し、任用し、ぶれることの無きよう研鑽に励み、誤りは謙虚に認め、是正することにためらいを持たず、日々、広く国民(県民)から感謝の気持ちを得なければならない」

と、こうなるかと思います。こうして見ると、長たる者は本来の政治能力は当然ながら、個人の資質が問われる、つまり長は人として完成されているか否かが前提条件となります。人としてみた時にはたしてどうか。虚言癖があるとか、人には厳しいが自らには甘いとか、言い訳が先に立つとか、見て見ぬ振りをするとか、あるいはえこひいきをする等、人として疑念を持たれては、国民を愛し国民のためにという、最も必要な最低条件をクリアしていることにはなりません。

もう一つ、宮城谷昌光さんの『鳳凰の冠』の中に、

「人には容〔すがた〕というものがある。人は他人の容をみて、その人の内容を察するのである。容が端〔ただ〕しければ、内容も正しいとみる。君主の場合はとくにそれが要求される。容が乱れていれば、臣下は邪推し、邪念を湧かす」

(追記) 宮城谷昌光さんの本を読むようになったのは、読売新聞朝刊に連載された『草原の風』がきっかけです。先人に学ぶ。このことは人生の送り方のひとつです。私にとって、宮城谷さんの本は、正にそのための教科書であり、なくてはならぬ手引書となりました。

↑ PAGE TOP