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Paris way essay collection


変化を求める


「この市を変えねばという気持ちで」と言うのが、最近の首長立候補者のトレンドである。市は県であったり、町村であったりするのだが、本当に変えようとするなら、行政そのものより、そこに住む人達の意識を変えねばならない。

人は意識的に保身に走る。他を批判することはあっても、自らには甘い。それが人である。明日からは、と自らの変化を口にしたところで、変わるものは如実に現れず、昨日との顕著な違いが見えてこない。自らを取り巻く様々な動体や静態の中においては、一つの小さな意思や決意などは無に等しく、大海の中の笹舟に等しい。

求められる変化とは何なのか。一般的にはより良い方向へ向かうと解すが、それより良い方向とは、抽象的であり、茫洋としたイメージで出てくる場合が多い。
人それぞれに方向があり、現実プラスアルファと思う者もいれば、人生を一変するなどと、極論を持ち出す者もいる。しかし、行政はそこに住む全ての人達を満足させるものではないし、それに応える力も持ち合わせていない。

その中で、変えねばという言葉は、ちょっとした変化を現すことに等しい。あまねく公平に顕著に実感出来る、より良い変化などは、あるわけがない。 誰かが得をし誰かが損をする。行政とは、これ等の平均値を設定するものであり、その設定ですら、そこに住む人達の納税があって成り立つものである。

首長がその実績を自慢したところで、自らの懐を痛めているわけではない。税が足りなければ債権を発行し借金を作る。借金は後の世代へと先送りになるが、これに触れようともしない。ここでもし変化を求めるならば、無借金の都市造りだ。現実に出来ぬ公約に期待するのは、虹色のシャボン玉を喜ぶに等しい。

しかし、人それぞれが早急にその大きさを目的としないならば、変わることが可能である。ささやかな変化であっても、集合すれば形となり、やがて一つの方向を導き出すことが出来る。人の集合体が都市であり、都市の基盤は人である。したがって、変化はすなわち人の意識の変化であり、それをなくして変化は生まれない。