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Paris way essay collection


子供は国の宝か


品質の悪い商品を社会に撒き散らし、素知らぬ風を装う様がある。一方で、その商品の品質の良さを、国民こぞって認めるべきと嘯く様がある。

例えが悪くてお叱りを受けるかも知れないが、『子供は国の宝』という言葉を耳にする度に、この様がイメージとして湧いて来る。勿論、全ての商品が悪いわけではなく、ある商品は自ら品質を更に高めようとする姿勢を見せ、ある商品は品質の劣化を防ごうと努める。問題は、これ等から外れた根っからの粗悪品という事になる。つまり、社会に出るや否や、宝というオブラートに包まれ、自らの品質を一顧だにせず、むしろこれで十分だと居直りを見せることにある。

今、『子供は国の宝』だと言われるのは、減少一途の少子化と、超高齢化社会を目の前にしているからだが、その現実を単に年齢別人口構成のみで語る事は、時間潰しでしかない。例えば、今から25年後の2039年の社会を語る時には、種々の文明・文化の発達はもちろん、グローバルなレベルでの社会の仕組みや、それらに伴う個々人の考え方や対応の仕方等、ありとあらゆるファクターを駆使し、分析し、構築し、より現実に近い形で描くことが必要で、2014年の今の社会の有様を、そのまま25年後に置き換える事は、思考停止を自認している事に他ならない。従って、巷でよく語られる「一人の高齢者を支えて行くためには、何人の若者が必要」というこの一点から、『子供は国の宝』というカルト的な言葉を独り歩きさせている現社会に、おかしさを感じるのである。

勿論、親が我が子を宝と思うのは自由である。親子の情なる愛を他人がとやかく言うものではない。しかし、巷の風に乗り『わが子は国の宝』と思うに至っては、これを看過することは出来ない。なぜなら、この段階において、何ら国に対して成しえた貢献の証なるものが無いからである。一歩譲り、命あることそのことが宝であるとの理屈なら、ここまで国と共に歩んできた多くの高齢者こそ宝であると、先ずは述べなければならない。

振り返って見る間でもなく、歴史に名を残した人物は沢山いるが、それらの人たちの中で、国の宝と言わしめた人物はどれほどいたであろうか。日本人の誰もがその名を知り、日本人の誰からも敬われ、まさに日本の宝となると、なかなか思いつかない。今の社会においては、『人間国宝』の称号を得た人たちがいるが、これは文化財保護法に基づき文部科学大臣が指定した、重要無形文化財の保持者のことを言うのであって、トータル的な国の宝となるのか疑問である。

先に述べたように、子供の全てが国の宝とはならないと言うのでは無い。これから先、正に国の宝と言わしめる人物が出て来るかも知れない。しかし、生まれたばかりの子供は、未だ宝になる前の原石でしかない。原石は磨かねば宝にならない。これを幼児においては親が磨き、成人に至るに従い社会が磨き、その先は更に自分自身が磨き上げなければならない。国の宝となるために何が必要か、いまその答えを明確に表わすことは出来ないが、少なくとも人とは何か、社会とは何か、社会の中で人としてどう生きるべきか、その程度のことが理解出来ぬようでは、宝とはなり得ないのである。