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Paris way essay collection


「風化させてはならない」というマスターベーション


過去から学ぶという行為は、先人達がそうであったように、何ら疑義を差し挟むものではないが、この行為の基本にあるのは、あくまで後世の人達に委ねられているという前提であり、先人がいくらこの行為を強く望んでいたとしても、それは後世の有り様を何ら考えることなく、望んだことであり、例えば、技術革新などにより社会や生活が劇的に変化すれば、一顧だにされぬ事もあって当然なのである。

巷では、多くの犠牲者や被災者を出した災害や事故があると、必ずと言ってよいほど、「このことを風化させてはならない」というフレーズが出て来るわけだが、この『風化』を辞書で繰ると、

「初めにあったなまなましい記憶や感動がしだいに薄れていくこと」とある。

つまり、記憶や感動であるから個々人に負うところであり、そのなまなましさも老若男女人様々である。従って、当事者で無い者、その事象から遠い位置にいた者からすれば、何ら関心を持たなくても批判されるものではない。

「風化させてはならない」とよく似たフレーズに、「語り継いでいかねばならない」というフレーズがある。記録を残すことだけでは駄目で、なぜ語り継いでいかねばならないのか理解が及ばない。伝聞は間違って伝わりやすい。代替わりするうちに、AはA(+)になったりA(-)になったり、あるいは全く別物のBになったりする。そもそも、スタート時のAを何ら検証することなく語り継ごうとするところに、偽善的な悪意を感じてしまう。
先の戦争の悲惨さを語り継ぐという話をよく耳にするが、戦後七十二年が経ち、戦争体験者も少なくなり、その体験も銃を手に戦闘に参加した人から、幼少の頃、空襲にあった人まで様々であり、 爺ちゃんが言っているから、聞いたから、と孫が真顔で語り継がねばという様は、何とも気色悪い。

人が学ぶことに水を差すつもりはないが、学びは必要にして学ぶというのが基本的な姿勢であり、強制され、しかも関心が無ければ、その学びは苦痛でしかない。自分に関わる何かを残しておきたいという気持ちはわからないではないが、他の人にまでそれを求めるのは如何なものであろうか。感動は人に促されて感動するものではないし、体験しない記憶は夢まぼろしでしかない。風化とい う語に罪はない。風化させてはならないと言ったひともいずれは風化して行くのだ。個人の感傷を斟酌するほど歴史は甘くはない。何かをしたような気分に浸りたくて、このフレーズを口にするなら、それはその人のマスターベーションに他ならない。