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Paris way essay collection


美醜


        『人は美の中の醜に目を瞑り 醜の中の美に目を逸らす』 (パリス)


人は自らの美醜を選択できずにこの世に降りて来る。それにも拘わらず、人は美を善、醜を悪とし、それを以ってその人の存在を否定するような過ち犯してしまう。醜さが悪であるとの見方は、遠い昔から、何世代にも渡って植え付けられてきた。醜さを汚くおぞましく、おどろおどろしく描画し、幼いころから脳内に刷り込まれ続けられたのである。これは物事の善悪を覚えさせるための一つの手法であったのだが、本来の心の美醜から外れ、いつしか、外見そのものの美醜で判断すればそれで良いと思うようになってしまった。

人は顔立ちや身体の形状で、その人の全てが決まるものでもないし解るはずでもないことは言うまでもない。この人としての基本的な考え方は、人の成長とともに理解できるようになるのだが、残念ながら、その姿勢を取り続けることはおざなりになっている。巷では、女性たちが外見の見映えする男性を見て、「イケメン」というのが流行であるが、その対極にある男性を見て、「キモイ」と揶揄したりもする。もちろん男性とて同じで、対極にある女性を指して、「ブス」と憚ることなく口にする。

昨今は性の違いに限らず、自らが更なる美へと憧れを抱く人は沢山いる。顔のパーツに応じた化粧品や美容に特化した様々なサービスなど、この憧れを補完するものは街中に溢れている。人が自らの外見的な美を求めることは自由であって侵すものではないが、どのような補完であっても、人の心の奥襞まで美化するものではない。もちろん、外見を美化することによって、心まで美化されたと思うことも自由であるが、心の美しさは、外見以上に他人からシビアに見られるのが普通である。

不幸にも事故に遭い、顔に傷を負ってしまい悲嘆することがあっても、それまで持っていた優しく美しい心までが傷ついたわけではない。従来と変わらぬ心で更に強く生きて行こうとするその姿勢があれば、周りは顔の傷に向かず、その美しい心の高さを称賛するであろう。その反対に、周りを圧倒するような美を誇っていた人でも、その口から発した一言で周りは不快感を覚えることがある。ましてや、その美しさが際立っていればより大きな失望を感じてしまうことがある。

さて、美的感覚は人様々であるから、基本的な美醜感覚を定義づけすることには無理があるのだが、余りにも安易で軽薄に美醜を口にする、例えば、所かまわず何に対しても、「カワイイ」というような社会的風潮は好ましいものとは思えない。なぜなら、日本文化の根幹を成す様々な生活の中にある美しさは、先人たちが長きに渡って造り上げて来た風情という感覚と密接に関連し、ワイワイガヤガヤの一過性の雑感覚で語れるものではないからである。

人がどう言おうと美しいものは美しい、醜いものは醜いと言ってなぜ悪いと、反発するかも知れないが、それは一個人の単なる一つの権利を主張しているに過ぎず、日本人の美醜の捉え方を代弁するものではない。上辺だけしか見ず人の心内を斟酌せず、ただ己の本能の赴くままに愚弄するために、「美醜」という語があるわけではない。

   美が醜に問うた。

    「お前の存在は何のためにある?」

   醜が美に応えた。

    「お前の醜さを知らしめるためだ」