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自己愛を弄ぶ


その昔、ある女性マラソン選手が、オリンピックで銀メダルを獲得したのだが、レース後の報道陣のインタビ
ューに応える中で、「自分で自分のことを褒めてあげたい」と口にした。褒めるとは、『長所や立派な行いな
どを認めて良く言う』ことをいうから、この場合は、自画自賛したということになる。もちろん、彼女のメダ
ル獲得は素晴らしいもので、彼女に対しては褒めこそすれ悪く言う人は殆どいなかったと思うが、彼女は自分
のことを褒めるという今までの社会の捉え方とは異質な行動に出た。その真意を推し量る術はないが、彼女は
ここまでして来た自分の努力や苦労を、単に「おめでとう」とか「良かったね」と人から言われる以上の何か
を求めていたために、口に出してしまったのかも知れない。

ともかく、このことがきっかけになったのかどうか分からないが、この頃から、自分へのご褒美調の言い方を
よく耳にするようになったと思う。もちろん、自己愛は人間の性(さが)であるから、殊更に咎め立てするもの
ではないが、こうも堂々と公言されると、何か嫌なものを見せつけられたかのように反応してしまうのは、私
が余りにも歳を重ね過ぎているからかもしれない。ちなみに、ご褒美とは、『その行いを褒めて、目上の人か
ら目下の人に与えるお金や品物』のことをいうのだが、このことを前提として、更に話を進めたいと思う。

サラリーマンをしていた頃、退社後に一杯飲むのが楽しみだった。今日も仕事を頑張ったから酒が飲めるぞと
のシンプルな口実があってのことだが、それを自分へのご褒美などと変換して飲もうという者は誰もいなかっ
た。仕事は頑張って当然で、飲酒はその頑張りのクールダウン、明日の頑張りの英気補充であって、もしご褒
美などと口にすれば、上司や先輩から、ご褒美を口にする程お前は仕事をしていないと一喝されるのは必定で、そもそも自腹で飲んでいるので、先のご褒美の定義からずれている。

褒められるというのは、何か良いことをしたら、先生や親から、「偉いぞ」とか「頑張ったね」とかの声を掛
けて貰えるものだと、幼い頃から学習し頭の中にインプットされて行くのだが、それはもちろん打算的なものではなく、日々の行いから自然に発生するものであったから、年に数回あるか無いかが普通で、事あるごとに褒められる人を見るととても嫌な気分になったものである。教育的な意味合いからすれば、褒めて育てることも必要なのだろうが、そのことに力を入れすぎると、人の関心を買うことだけに長けるようになり、腹黒い人間に育って行くことにも繋がりかねない。

最近は、フェイスブックやインスタグラムやツイッターなどのSNSの利用者も増えているのだが、その内容
は自慢合戦の様相甚だしく、「あれ食べて見ました」とか「これ買って見ました」とか「どこそこへ行って遊
んで来ました」などとオンパレード状態で、せめてその内容が、ユニークだったり、斬新さがあれば良いのだ
が、似たり寄ったりの二番煎じで面白みに欠けるものばかり、しかもそこに、自分も褒めて欲しいのか、てんこ盛りのコメントで褒めそやすものだから、なんともウザいことになっている。

謙虚さは日本人の美徳の一つなどと堅苦しいことを言うつもりはないが、どうしても最後は謙虚である人の方
を評価してしまうのもまた日本人である。まあ個性が無ければ自分の存在は薄いものになってしまうから、個
性を強調すれば良いのだが、更にその個性を自分で褒めそやすとなると、人間性に?が付いてしまう。人には
それぞれの人生模様があり、何らかのきっかけで、自分を過大に強調して見せなければならなかったのかも知
れないが、その結果、多少なりとも良い方向に変化されれば良いが、単にその場の雰囲気に流され、皆がそう
しているからと、自分へのご褒美などと遣ったばかりに失笑を買うはめになってしまう。

何事も程ほどにというのが先人たちの教えであるから、自己愛も程ほどにしておけばよい。ご褒美は褒美その
ものより、良いことをしたという実感を得て、その余韻に浸れるところに価値がある。ここを理解出来ずに、
自らの恰好付けのためのご褒美は、見映えは良いかもしれないが、人からの共感は得られず、心の中に残らな
い。そうなってしまうのは、自分の自惚れ顔をドアップで載せているからだ。

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