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誰が道徳心を潰したか


最近、親が子を虐待したという報道をよく耳にするのだが、これは子供が社会に出て行く際に必要な、知識やルールを親が子に教える、いわゆる、躾ということについて、親自身が正しく理解出来ていないからではないかと思う。躾が疎かな家庭に育った子供は社会に出れば恥をかく。延いては、躾を怠った親もまた恥をかく。これが俗にいう「親の顔を見てみたい」というお馴染みのフレーズなのだが、勿論、親の顔を見たところでどうなるものでもない。

このため、親はともかく子供に対して、きちっと躾をしようとするのだが、これが虐待へといってしまうのは、そもそも親自身がまともに躾されずに育てられたため、子供が生まれ躾らしきことを始めて見るものの、日頃から、親同様に言いたい放題、やりたい放題の子供からすれば、親の言うことに理解も出来ず納得も出来ず、むしろ逆に反抗的になってくる有様。ここで親は一度立ち止まり一呼吸入れれば良いものの、結果を焦ったばかりに苛立ちばかりが増し、声を荒げ、力をもって従わせるのが手っ取り早い躾の方法だと錯覚してしまったのだろう。

今の時代、希薄となった語の一つに「道徳」がある。徳とは「生まれつき、あるいは修養によって得た立派な人格、特に人から好かれ、自然に人を従わせるような人格」のことをいうから、人格者であることが、人の正しい姿勢、あるべき容ということになる。普段は公衆道徳とか交通道徳をマナーと置き換え、脳内にインプットしているものの、人目無き所に在れば、マナー違反は甚だしく悪い。

徳が高い人の目は穏やかで、温かみに溢れ、発する言葉もまた穏やかで、棘はなく、煽らず、相手の心を弄ばない。常に気配りや心配りが出来、不快な雰囲気を造らず場を壊さない。日々、己の未熟さや短所を認識し、改善しようとすることに何のためらいも持たない。まあ言ってみれば、仏様のような人となるのだが、もちろん、そんな人には滅多にお目にかかれない。

その昔、中国の春秋時代に衛の国に石碏(せきさく)という名臣がいたのだが、この石碏が君主である荘公の後継者選びに際して、荘公の行為を諫めた。次にその内容を宮城谷昌光さんの著「春秋名臣列伝」から引用する。

 『賤人が貴人を妨げ、年少者が年長者を凌ぎ、遠縁の者が近親の者に割って入り新参者が旧族にまじり、
  小身が大身を加(しの)ぎ、淫が義を破るというのは、いわゆる六逆(りくぎゃく)であります。君に正
  義があり、臣がそれを実行し、父に慈しみがあり、子は孝行でむくい、兄に愛があり、弟は兄を敬う
  のが、いわゆる六順(りくじゅん)であります』

この一節の前後に言が並ぶのだが、ここに道徳心の基本が集約されている。社会や家族は人の存在で成り立っているのだが、その人としての在り方次第で清濁が露わになって来る。

巷では、TwitterやFacebookやInstagramなどのSNSが大流行で、何々を見たとか、何々を買ったとか、何々を食べたとか、自慢合戦で盛り上がっているのだが、文明の発達が悪いわけではないし、あくまで個々人の用い方次第なのだが、文明の中には、享楽心を殊更煽り、快楽や堕落へ導こうとするものもある。当然ながらこの場合は、道徳心は薄れ、社会や家族の関係は歪み、人の姿勢も崩れて来る。

国は、虐待防止のための法の整備を考えているようだが、そもそも、道徳心が育っていなければ、どんな法であっても健全に機能することはない。少子高齢化という大命題もあるかも知れないが、尚のこと、道徳心に満ちた社会を構築するための様々な施策を先ずは最優先に講じなければならない。健全な社会には自浄能力があり環境も整ってくるのだが、あくまで、自由という概念に拘り続けるのなら、永遠に道徳心は定着することはないだろう。

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