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Paris way essay collection


凡庸という名の価値と生きる


人生が詰まらないと思うのは、詰まらない人たちだけと関りを持ち生きているからだ。周りを見渡せば、個性に乏しく、変化に疎く、自ら が凡庸であることさえ気付けぬ人たちで占められている。敵意を露わにした言動をするわけでもなく、何でも言うことを聞いてくれるという わけでもないが、いつも横にいるというこの距離感が何とも心地良くてずるずると付き合っている。何かを遣ろうとすれば纏まるのは早いの だが、回を重ねると目新しさも段々と薄れてきて、いつも程ほどのところで折り合って終わることが多い。日々これを繰り返していると、ちょ っとした変化に反発さえ覚えるようになり、早い話が、ここまでの自分の生き方の姿勢がそもそも詰まらなさの原因であったことに気付くの であった。

ずば抜けた才能や誰からも認められる人望を備え持つ人は一握りの人で、ほとんどの人は凡庸であるといってよい。勿論その凡庸さの 基準をどこに置くかによって、その人の立ち振る舞いも違って見えるだろうし、逆にこちらが凡庸であるがために、相手の秀でた部分を見 落としているかも知れない。人は他の人の長所とするところよりも、短所とするところを記憶に残そうとする。下品であるとか、粗野である とか、その言動や姿勢が誰からも顰蹙を買うようであれば、それは人の記憶として残り易く、印象が強ければ強いほど相手に対しての烙 印も押しやすい。だから、凡庸であることは決して悲観するようなことでなく、ごく一般的な生き方の姿であり、何ら恥じ入ることはではな いのだが、人は何故か、自分の凡庸さを棚に上げ、人の凡庸さを批判したりする。

無理やり凡庸さを強調して見せる必要はないのだが、凡庸であることをさも犯罪であるかのように吹聴し貶むことに嬉々とする輩も存在 するわけで、そのような場に接した場合の対応の仕方ぐらいは、いくら凡庸であっても心得ておかなければならないことは言うまでもないが、 この世の中の人間が全て善人であるわけではないし、悪人であるわけでもない。しかもその善悪にも深浅があり、一様ではないから、千 差万別の反応が必要な気もするが、深浅同時に現れるということは稀なことであり、一つの基本的なパターンを想定して置く程度で十分 である。

人生は競い合いの中に存在するわけではない。もし競い合いの中に人生があるのなら、先に死を迎えた方が敗者である。愚かな者は覇 を好み欲望の成果に祝杯を重ねる。凡庸であれば、覇を好むことはせず、別の世界のことであるかのように振舞う。敢えて、凡庸なことに 価値を見出すとすれば、達観したかのような大きな勘違いを何の抵抗もなく無造作に繰り返すことが出来るということであろう。