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Paris way essay collection


表の顔と裏の顔


人々が社会を形成し、その社会の一員に成ろうとするのは、その社会に存在する価値に気付いているからで、もし一片の価値も見いだせず、 息苦しさしか覚えず、挫折感が日増しに強く感ずるようであれば、強いてこの社会に留まる必要はなく、我慢することもない。早々に、この社 会から隔絶した地を探すか、別の社会を今一度試してみるか、その一歩を踏み出せばよい。

社会には決まりがある。社会に住む人達それぞれが好き勝手に行動するなら、社会は単にスペースの意味しかもたず、そのスペースが乱れま くろうと汚れまくろうと、至る所で支障が生じようと放置され、いつしか、己の生活基盤となる利害を模索することさえ困難となる。従って、人々 は社会には何がしかのルールが必要であり、それをそれぞれが何世代にも亘って引き継ぎ、不変の安定した社会にしょうと考えた

それは法や条例であったり、マナーや道徳心であったり、あるいはちょっとした気遣いであったりするのであるが、それぞれの明確な形はともかくと して、概ね、そこに住む人達の受け止め方次第で成り立っているものが多いようだ。しかし、日常の社会生活を営むうえで、これらから受ける精 神的な圧迫感は皆無に近いレベルであるから、人々は薄い意識の中でこれを受け入れているのである。

社会の中には、「自由」という概念が大好きで、何を差し置いても最優先であらねばならないとの考えを持ち生きている人がある程度は存在す る。「自由」の定義を見ると、「他から妨げたり邪魔されたりせず、自分の思いのままに出来ること」と、なっているが、だからといって、社会の中で 自由のただ一点を振りかざし、己が言動を繰り出せば、周りから冷たい視線を浴びることになり、更には排除されそうな動きも見えてくる。

これは何故かというと、自由を認めないということではなく、自由の行使は平等であらねばならないということに他ならない。己が自由を最優先と したい気持ちも分からないではないが、それがそう簡単にはいかないのは、有り体にいえば、己が自由よりも更に優先せざるを得ないものが存在 するからである。それは義務であったり、互譲の精神であったりと、日々の社会で頻繁に現れるのであるが、これとて、人それぞれの捉え方次第 で、全く無視されてしまうことも珍しくはない。しかし、この意識を持たない限りは、表と裏が混在する社会であり、社会の中の不満の汚濁として 沈殿化する。

過日、五年ぶりに国勢調査が実施された。この調査の目的は、日本国内の人口や所帯の実態を把握し、様々な行政施策を実施するための 情報基盤を造り上げるために実施するものであるが、この結果は公的なものだけにとどまらず、民間企業や各種の研究機関などで幅広く活用 されている。従って、この調査の基本的なところに頭が全くついていけず、調査を拒否したり、嘘を回答したりする者がいるが、このような行動は、 自らの利を放棄しているに等しい。

まあ今の日本社会には色々な人種や民族が住んでおり、考え方や物事の捉え方も多様となっているが、そもそも普段から「己が自由はどんな 環境であれ常に主張し、己がプライバシーは絶対に明かさず、加えて、何にでも反対することを厭わぬ」住民がそれなりに存在するわけで、日 頃は表の顔と裏の顔を上手く使い分け、社会の中に溶け込んでいる。

こういう住民が多ければ、その調査区域の回答率はおのずと低いものとなり、誤った情報がベースとなってしまうことにもなる。五年に一度、わず か10分程度の回答時間を惜しむことや、あるいは、違った情報をわざと記入しほくそ笑む精神構造は凡夫には理解が出来ない。全ての人が 聖人の域にあるわけではないから、裏が強く出てしまう場合もあるだろう。しかし、社会がそれでも混沌とするようには見えないのは、表が多数派 を占めているからであると信じたい。