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Paris way essay collection


セクハラ


        「愛そのものに価値は無い。愛し合うことに価値があるのだ」  (パリス)

人は思春期を迎える頃になると、異性に強く関心を持ち始め、更に次のステップである恋愛という男女関係を意識しだすのは、自然の摂理というものであるが、その関心が異状な言動となって表れるとなると、社会はこれを許そうとはしない。ただ、この言動の有り様が不明確過ぎるといおうか紛らわし過ぎるといおうか、一律に括ることは出来ず、傍から見ても同じような言動であっても、ある時はお咎めなしとなり、ある時はセクハラ認定されてしまうことがある。

そもそも男女間の恋愛感情は機微であることから、大雑把な括りで語れるものではなく、僅か一言を発したことがきっかけで、それまでの相思相愛だった恋愛関係が壊れてしまう場合もある。従って一方的に好きだという片思いや横恋慕などの執着心や粘着性による他人からの言動は、相手にとってこの上もなく気持ち悪く迷惑なことで、セクハラ認定というよりれっきとした性犯罪と認定されてしかるべきかもしれない。

セクハラについての法律を見ると、「雇用機会均等法(雇用分野における男女の均等な機会及び待遇の確保に関する法律)」の11条1項に規定されている(詳細は省略)のだが、その運用はかなり柔軟であり、雇用という形態に捉われず、男女間におけるシンプルなシチュエーションを想定したものであり、見方を変えれば、あの悪しき因習である男尊女卑を打破するために設けられた法律ではないかと思える。それは未だにこの因習に凝り固まった沢山の男性が存在するし、そうしせめるような家長制度に魅入られた古いタイプの女性も存在するからだ。

話は変わるが、余程の堅物でない限り男性は女性から放たれる色香に反応し、そのような女性を見掛けると視線を這わせてしまうことがある。しかし、このことを以って男はいやらしい生き物で産まれながらの犯罪者であるかのように批判する女性もいるが、これは自分の存在すら否定しているようなものである。なぜなら、全ての女性に流れる血の半分は男のものであるからだ。逆の見方をすれば、母の胎内から産まれておきながら、女性蔑視を口にする男性と何ら変わらない。

話を戻すと、命題は唯一つで、「なぜセクハラはなくならないのか」ということであるが、ネットを見ると様々な考え方や捉え方を目にすることが出来るが、「なくならないか」という語が語るように、有り体にいえば、男女がこの世に存在する限り、なくなることはないのではないかと思う。ならば、「雇用機会均等法」を更に見直しより厳しい罰則を設けるか、あるいはその実効性はともかく、男女間で社会的に住み分けをするかということになる。もちろん、これらの効果を高めるために、様々な機会において啓蒙を行うとともに、性産業といわれるサービス業に対しても監視を強めていかなければならない。まあここまでやると、さすがに社会は閉塞感に覆われ、あの大好きな恋愛という語も自由という語も死語となるかも知れない。

そもそもセクハラという行為を軽く考えるか重く受け止めるかがスタートなのだが、何らセクハラ行為に無関係でそれこそ正しき人生を歩んでいる人たちまで巻き込む必要があるのか、純粋に恋愛に目覚めた初心な若者たちを巻き込む必要があるのか、一部のフェミニスト達の一方的な決め付けを放置したまま、責任々と騒ぎ立てる社会構造を放置したまま、このセクハラについて何が何でも問題提起しなければならないのか。

人が全ての社会の営みに介在せず、無気力な時代を迎えた時、初めてセクハラの語がこの世から消えているかも知れない。それは遠い遠いずっと先の時代のような気がする。