父の軍歴
戦後七十年が経ったが、何を考えるにしても、あの戦争を中心にしてしか考えようとはしない面倒な人たちがいる。戦争を美化するつもりは毛頭ないし、あの戦争を詳細に分析し、何らかの結論を導き出せる能力も持ち合わせていないが、巷で、あの防衛という二文字にヒステリックに反応し、やれ平和への冒とくだの憲法違反だのと祭り状態に入っていく様は、何とも薄気味が悪い。
加えて、彼らはあの戦争で国のために戦い命を落としていった多くの日本人兵やその遺族の心情を、何ら斟酌することもなく、ただ一方的に、日本人が悪かったと卑下し貶める姿勢は、同じ血が流れる日本人のものとはとても思われない。一つの時代があった。たとえその時代に何事があろうと、どんな結果になろうも、人はその時代に向き合って生きて行かねばならなかった。あの時代をどうしても批判したいなら、その時代に生きたであろう自らの祖父母や父母が、どのようにその時代と向き合って来たかを先ずは問うべきだろう。
いつも、自分が被害者の立場でいたいと思うのは勝手だし、言うだけ言って逃げ回るのも自由だが、その発言と行動が、誰の犠牲の上にも成り立っていないと、どうして断言できるのか問うてみたい。
以下に父の軍歴を記す。なお、一部の詳細にいては割愛する。
明治39年05月 石川県に生まれる
昭和02年01月 徴兵として歩兵第7連隊機関銃隊へ入隊
昭和02年05月 第1期教育終了
昭和03年11月 現役満期
昭和03年12月 予備役編入
昭和04年 簡閲点呼
昭和05年10月 28日間歩兵第7連隊に於て勤務演習
昭和06年 簡閲点呼済
昭和07年02月 充員応集の為歩兵第7連隊に応召
歩兵第7連隊第3中隊に編入
上海派遣の為宇品港出港
呉淞鎮上陸
03月03日に亘る上海付近の會戦に参加
昭和07年05月 復員下令
上海港出発
昭和07年06月 大阪港帰着
召集解除
昭和08年 簡閲点呼済
昭和09年04月 後備役
昭和10年 簡閲点呼済
昭和12年08月 充員応集の為歩兵第7連隊に応召入隊
歩兵第107連隊第2機関銃中隊に編入
昭和12年09月 宇品港出発
釜山港上陸
鴨線江通過
満支国境山海関通過
天津着
10月18日まで石家荘及?陽河會戦に参加
昭和12年11月 11月19日まで太原攻略戦に参加
昭和13年02月 昭和13年03月11日まで河北戡定戦に参加
昭和13年03月 04月17日まで占領地粛清戦に参加
昭和13年04月 06月02日まで徐州會戦間に於ける山西粛清戦に参加
昭和13年06月 07月16日まで晋南粛清戦に参加
昭和13年07月 08月14日まで山西警備に参加
昭和13年08月 09月17日まで黄河口畔秋季作戦に参加
昭和13年09月 10月30日まで北部山西作戦に参加
昭和13年11月 12月25日まで寧武攻略戦に参加
昭和13年12月 昭和14年01月02日まで南部山西軍掃蕩戦に参加
昭和14年01月 02月11日まで北部山西警備に参加
昭和14年02月 03月18日まで北部山西掃蕩並静楽攻略戦に参加
昭和14年04月 05月22日まで五台作戦に参加
昭和14年05月 歩兵第107連隊第3機関銃中隊に編入
06月10日まで黄河東岸山西軍主力殲滅戦に参加
昭和14年09月 青島港出発
宇品港帰着
歩兵第7連隊第2中隊に編入
召集解除
昭和19年04月 第1国民兵役編入
昭和20年07月 臨時召集に依り金澤師管区歩兵第1補充隊に応召
作業中隊附
歩兵360連隊に転属
長崎県北松浦郡鷹島村に移駐
當地付近の警備
昭和20年 召集解除
父は62歳でこの世を去った。二十歳過ぎから終戦になるまでの18年間、父は戦争の中で生きてきたが、戦争のことを一切私に話すことは無かった。誰かに語ったところで、どうにもならぬことを分かっていたのかもしれない。あるいは、戦争の無い時代に生まれた私に、戦争の悲惨さを話すべきではないと思ったのかもしれない。
一節の伝聞や一片の記録を以って、これが戦争の全てというような発言を時々耳にするが、何とも言えぬ腹立たしさを覚える。なぜなら、命じられるままに家族と郷土と国のために、自らの命を懸けて戦った父と、その父をずっと支えた母が愚弄されているように思えるからだ。今日の日本の平和と自由は、我々の祖父母や父母の辛苦から生まれたものだ。
人間の欲には限りがなく、一つ得られれば、次々と欲の芽を膨らます。