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Paris way essay collection


母が遺したメッセージ


介護は介護した者でなければ分からない。真実だ。その道を志し職に就いた人ならいざ知らず、ある日突然、寝たきりになった親の介護をする。その辛さは介護をした事のない人にとって、決して理解出来るものではない。

子が寝たきりになった親の介護をする。そんな法律があるのかどうか知らないが、子を思う親の気持、親を想う子の気持は、人間でなくても当たり前の事だ。人は予測出来ない事に遭遇する。寝たきりになる。介護しなければならなくなる。日頃はそんな事など起こるはずがないと思っていた事が、突然やって来る。心構えなど出来きているはずもない。何をどうして良いかも分からない。 むしろ、他人事のような錯覚に陥ってしまう。

介護は気持ちだけで出来るものではない。体力勝負だ。寝たきりになった親が小柄だとは限らない。着ている物の取替え、寝具の取替え、便の始末、清拭などあらゆる場合に体力を必要とし、自分の体力のなさに失望する。これだけではない。深夜、明け方、時を問わず、オムツの取替えや吸痰で熟睡する事はほとんど出来ない。介護疲れはここにある。これが何年も続くのだ。

いついつまでと決められた期間ではない。親の命がある限り介護は続く。介護疲れから、親を殺したというニュースを耳にするが、介護した者にとって、 理解に苦しむ事はない。ただそこまでに至らぬのは、親の面倒は自分が見なければという強い信念と気力が勝っているから続くのだ。

この国には、介護保険という制度があるが、全ての面で人手が頼りの要介護4、5の場合は、十分機能しているとは思えない。詳細な事は省くが、例えば、 吸痰を必要とする場合でみると、吸痰は医師、看護師と家族に限定されている。従って深夜、未明いつ吸痰が必要か分からない前提では、二十四時間看護師を依頼することになるが、大金持ちならいざ知らず、普通の家庭ではそんな余裕はとてもない。

それに第三者に介護を委ねた時、本当に家族の気持ち通りに介護がなされるか疑問だ。素人の身内がする介護とプロの介護士や看護師がする介護とでは、どちらが良いかと問われれば殆どの人はプロと答えるだろうが、そうとは一概に言えない。もちろん、プロの人にも素晴らしい人達はいると思うが、子が親を思う気持がプロにはない。だから、介護というものを事務的にこなされてはたまらない。

ひとつ例をあげると、ある病院では、オシメの取替え時間が決まっていた。下半身が不快な状態であっても、その時間がこないとオシメを替えてもらえないのだ。吸痰もしかりだ。現状の施設に百パーセント望むのは無理だと十分承知している。不満を述べたところで、改善されないことも分かっている。
十二年前、脳梗塞で倒れ七年間寝たきりだった母が死んだ。その間、母を介護したのは、私でもなく私の兄弟でもなく、私の妻だ。姑と嫁の関係において、介護とは夫の母と息子の嫁という繋がりで出来るものではない。実の母、実の娘という互いの意識の上に成り立っている。言うまでも無く、嫁は赤の他人である。その他人に大正生まれの母が下の世話をして貰う。いくら一つ屋根の下に住むとはいえ、口には出せぬ屈辱を感じていただろう。

介護される者と介護する者、それは物と人ではなく、人と人とが心の中で深い絆を持ち、相手に敬意を払う事により可能なのである。晩年、母は病床で「あなたに見捨てられたら死んでしまう」と妻に言った。実の娘ではなく、血の繋がらぬ妻に母は涙を流しながら言った。それに対して「決してお母さんを見捨てたりしないわ」と妻は母の手を握りながら応えた。

在宅介護が当たり前と言うつもりはない。生活上、どうしても施設に委ねなければならない場合もある。しかし、施設に預けぱなしではあまりにも親が可愛そうだ。寝たきりになるとどうしても気弱になる。訪問さえ滞るようなら、親は子に見捨てられたと思ってしまうだろう。親があっての自分であることを忘れている。そんな親子関係ならば、介護という言葉は決して出てこない。

介護者が、介護とは別にもうひとつ辛さを感ずることがある。それは偽善者の存在だ。実の親にも関わらず、自らは介護や援助を一切行わず、寝たきりの親の代弁者とばかりに、介護者の行為や行動にケチをつけ、なじり責め立てる。寝たきりになった者にとって誰に感謝しているかと言うと、自分を親身になって介護してくれる者に他ならない。そんな当たり前の事を理解しようともせず、親の死後の保身のため、体裁だけを取り繕うとする。そんな偽善者に妻は七年間苦しめられ耐えてきた。妻には感謝の気持ちで一杯だ。気持ちだけでは足りぬことは重々承知している。

遠からず、わが身にも降りかかるかも知れない寝たきりの生活。そうなった時、果たして介護してくれる者がいるだろうか。母の遺してくれたメッセージがすぐそこにある。