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Paris way essay collection


政治家目線の国民目線


最近、よく耳にする語に国民目線というのがあります。この語は政治家の口からよく発せられます。政治は国民のために為すということは当然のことですから、政治家がこの語を発してもおかしくはありませんが、この語の使い処を誤れば、この語は軽いものとなり、この語を発した政治家もまた自らの軽さを露呈することになってしまいます。

国民目線は全ての国民の目線と置き換えることは、不可能であることは言うまでもありません。国民一人ひとりが考え方を持っており、政治を見る目も千差万別です。そこで国民目線と示されても、その目線がどの位置にあるかによって、国民はその目線を自分に照らし合わせます。するとそこに矛盾が生ずれば、この国民目線は意味をなさない語となります。

一つの目線を決める手立てとして、国民世論の調査があります。いくつかのマスコミは、政治に関する世論調査を実施しており、そこに現れる数値は多少のバラツキがあるものの、概ね現状の政治に対する国民の意識を現しています。ですからこの数値に基づき国民目線を唱えるなら、それなりの根拠があるのですから、ある意味正しい発言と言えるでしょう。問題はこの発した目線と政治にギャップがあってはならないことです。

国民が政治を評価するのは、示した政策が間違いなく実行され、より良い結果を産み出したことを評価し、それを為した政治家にも良い評価を与えます。しかしその過程において、何らかの疑惑を国民に抱かせるとしたら、国民はその成果を高く評価をしません。

近頃の政治とお金に関する疑惑は、この国民目線とかけ離れた位置にあります。国民から疑惑を向けられる政治家は、国民が求める政治を為すとは思えません。疑惑を持たれるということは、その言動において疑惑を生じさせたということで、その取り繕いに政治のためと置き換えることは、殊更に国民に不快感を与えます。

政治家は我が身の清廉さを国民に明らかにする義務があります。どの政党、どの政治家を支持するかは、国民それぞれの自由と権利であって侵すものではありません。しかし疑惑を持たれている政治家を、何のためらいもなく支持するというのは、オカルト的宗教観と変わるところがありません。確かに犯罪と立証されたのではなく、あくまでそれらしきの類であり、信じたいと思うのかも知れませんが、疑惑を帯びたまま政治に参加することは、所詮疑惑を帯びた政治であるといえます。国民目線はこれ等についての政治浄化願望指数であります。一部の少数の国民を引き合いに出しての国民目線は国民目線ではありません。自らを支持する人達だけが国民ではありません。これは、政治家目線の国民目線です。

政治はあまねく公平にというのが原則ならば、国民目線は大多数の、少なくとも多数の国民を基礎としなければなりません。それが民主主義下の政治の姿であります。