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Paris way essay collection


形式的なコメントを遣う


「そんなに元気が欲しいなら、サプリメントでもお摂りになったらいかがでしょうか」との野暮は申しませんが、最近テレビに出ているタレントの皆さんが、「元気を貰った」とか「勇気を貰った」等のコメントをよく口にします。これはある物事があって、それを見た感動的な意味合いとして使われるのですが、このコメントが通り一遍の形式的なコメントにしか聞こえて来ないのは、「元気を貰った」というその現実性が見えて来ないからです。

現実として、「何年か前に、これこれしかじかの事があり、それを目にした時、自分も元気を持たなければと思った。それ以来、何か苦しい事があった時、その時の事を思い出し乗り切って来た。今度もあの時と同じような気持ちになった」との前提があってのコメントであれば、分からない訳ではありませんが、「元気を貰った」との一言の中に、こういった意味を十分に含ませたような、コメントとは聞こえて来ません。

形式的なコメントはテレビを見ているとよく耳にします。この「元気を貰った」の他には、食べ物関係の番組で、「野菜の旨みが」とか「素材のまろやかさとコクが」とかが、よく耳にするコメントで、料理の専門家ではない普通の人にとっては、やはり理解に苦しむコメントです。「野菜の旨み」とは一体どういう事を言っているのでしょうか。野菜それぞれに特徴があるのは分かるのですが、その野菜の甘味なのか辛味なのか、それとも何か他のものなのか、その辺りが理解出来ずに、「あっ!そう」レベルで聞き流しています。

勿論、社会生活の中では形式的な言い方が存在し、それが認知され抵抗無く受け入れられているものもあります。これ等は理解に苦しむ事が無いために受け入れられるのですが、これはごく一般的な常識を元にしたコメントであるからだと思います。一つ例を上げると、葬儀の場において遺族の方に言うコメントとして、「この度は突然の事で、○○○」と言うのがあります。この○○○の部分は声が段々小さくなり、何を言っているのか分からなくなるのですが、これで十分通ずる形を成したコメントです。

話は戻りますが、物事に感動することは稀ではありません。人それぞれに感動の仕方も違いますし、その軽重も違います。殊更に無感動を貫く積りはありませんし、人の感動をあげつらう気もありません。ただその感動を伝える時には、多少のテクニックらしきものが必要だと思います。

発するコメントが発する人と一体になるところにベースがあります。これ等のコメントをよく使う、お笑い系タレントやタレント化した女性アナウンサーの人たちのコメントの仕方は、紋切り型にしか見えず、この辺りのところが欠けているのではと思います。

「元気を貰った」とか「野菜の旨み」のようなコメントは、今風と言えばそれまでですが、コメントは文章で現すか言葉で現すかです。言葉は相手に何かを伝えるための道具です。その相手がテレビのように不特定多数である場合は、道具の使い方が誤っていれば得るところがありません。言葉は語の集合で、語それぞれが持つ意味が、交ざり合うところに味があります。それこそ、的を射たコメントには元気があり、旨みがあることとなります。