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Paris way essay collection


人と交わる時の三カ条


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人を知る

最近、女性の色香に惑わされることが少なくなりました。これは、仏教でいうところの覚りを開いたという、 仰々しいことではなく、世の中には色香の無い女性ばかりだと、大それたことを言うわけでもありません。つまり、女性を外見だけにとらわれるのではなく、あくまで人そのものとして見るという、本来がそうある べき方向に、回帰したということです。

人を知るということは、社会生活の中で、極めて重要で基本的なことといえます。そして沢山の人達と知り合うということは、自らの人生の器が、拡がっていくということに繋がります。知り合った人の考え方や人生観を知ることにより、ある時はこれを利用し、ある時は修正しながら、自らの人生に豊かさを付加することが出来るからです。

人は身体的にも精神的にも千差万別で、誰一人として全く同一の言葉を発したり、行動することはありません。あくまで一人ひとりの個体であって、若者は、あるいは高齢者は、と大きな枠で括ることは、何の意味もなしません。つぶさに見れば、若者一人ひとりが、高齢者の一人ひとりが、固有の人生を持っています。

外見やそのちょっとした発言や行動で、人を判断することはたやすいことです。しかし、このことは自らが 人を知ろうということを、放棄していることに他なりません。確かに粗野であったり、精神的な疾患がある人を、深く知りたいと思うことは少ないでしょうし、これを成したところで、殊更に自らの人生が変わり始めるということもありません。

人を知るということは、自らもまた知られるということです。人の真が知りたいと思う時、自らもまたその 真を明らかにせねばなりません。自らが偽を成し、相手の真だけを得ようとするなら、互いに知り合うという関係は成り立ちません。これはプライバシーを守る必要が無いということではありません。いわゆる本音で語ることが前提だということです。

人の心が揺れ動くのも事実です。その動きに翻弄されることもあります。中には、これ以上の付き合いはしたくないと思うこともあります。人はそんな弱い面を持ちながら、人生を送っています。しかしだからといって、小さな殻に閉じ篭っていれば、寂しい人生でしかありません。 人の一生は喜怒哀楽であり、それらを味わいながら過ごします。そしてこれらを帯びているからこそ、そこに人を知ろうとするわけです。

人の良いところを探す

誰にでも良いところはあると言いますが、裏を返せば良いところがなかなか見つからないとなります。本来なら良いところと見られていた事であっても、周りと同化する中に、良いと口に出すまでに至らなくなった、ということはよくあります。それでも良いところを口にせねばならぬ時は、そこに形容詞的な意味合いの何かを付加するとか、狭小な範囲にまで絞りきるとかのテクニックが必要になってきます。

良いところは本人が思うところとは、必ずしも一致するとは限りません。自らの長所を自らが語る時に躊躇するように、周りが見る目の置き所は、客観的で浅く外見の一容を見て、限りある語句の中から選択する手法を取ろうとします。人の評価はそれほど軽いものであって、「そうとは知らなかった」との語を口にした時は、その軽さを認めたことになります。

良いところをなかなか口にしないのは、個人を否定していることではありません。際立った良さを持たぬ人を否定することが許されるなら、殆どの人が否定されてしまいます。 時代の中、社会の中でごく普通であることは、このこと自体が良識の範ちゅうで、敢えてそれ以上の良さを求めねばならぬところに無理があります。

無理やりこじつけたような良さには、嫌味が多分に含まれ、ひいては個人の否定に繋がっています。 人は良いところと悪いところの両方を持っています。良いところより悪いところが目立ってしまうのは、常識という尺度で見ているからです。「悪いところは沢山あるが、良いところは無い」と自答してしまうのも、この常識の中で考えてしまうからです。

人の目は決して正しい判断をするわけではありません。それゆえ「人の目を気にするな」と言いますが、やはり気にしてしまうのが人であり、意識するあまりになおさら良さを出せずに終わってしまいます。良さを出すことは簡単です。手っ取り早い方法は人の言いなりになることです。そうすれば、素直な人間だ と評価されます。しかし、それが当たり前になった時、それは、「主体性が無い」との評価に豹変します。

意識せずに人から認められる良さは、自らが自らのことを熟知することから生まれます。熟知するところに 誤りがあってはなりません。その人の良いところはその人の最も輝くところにあります。

人の評価

人の評価を受けるのは宿命といえます。社会はその評価された人達の蓄積であり、その評価の対象とされた知識や技量や、その他諸々のファクターの上に成り立っています。

人の評価はその人の人生においてなされ、時として否応無く序列として現われます。もし評価が全くされない社会であるならば、その社会は画一的な社会であり、自由と連動する想像力が生じることが無い社会といえます。これは無機質な動体が、一本のレールの上を何の干渉も受けず、一定の速度で走るに等しいことです。

評価は変化します。変化をしないならば進歩が生まれてこないからです。百年前の秀でた評価であっても、この時代に当てはめるには厳しいものがあります。伝統は、その古い評価が成したものですが、例え、今息づいていたとしても、この社会の主流になることはありません。

評価が生み出すものは、必ずしも評価を受ける側のプラスとはなりません。時には失望を産み無気力を誘います。しかし、その無気力を一変させるのも評価です。 自らが自らを評価する場合には、プラス側の評価をしますが、その場合の評価は、本来の評価からずれたところにあります。

評価基準は、評価する側の基準であって、評価される側の思惑が入ることはありません。 しかも、その基準は社会的に認知されたものとして、動くことが普通であり、評価する側の思惑が、その全てであったとしても、これを声高に否とされることは、極めて稀なことです。

自己保身は、この評価の中に身を委ね、評価に逆らわずに生きることにあります。評価に逆らえば、社会の中で孤立することになり、人としての権利は保有するものの、差別という痛みを背負うことになることもあります。/p>