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Paris way essay collection


差別心と共に生きる


今の商業社会では、競合する他社との差別化を図らなければ、売り上げが伸びないと考えるのが一 般的である。もちろん、ここでいう差別という語にに対し、過剰に反応を見せる人は殆どいない。対象が人ではなく物やサービスだからであるが、もう少し詳細な見方をすれば、購買対象を想定され一種の差別ともいえるのだが、そこまで踏み込みを見せる人も殆どいない。人を外見や言語や生活慣習等から差別してはならないというのが、今日の世界標準となっているのだが、この流れを理解し実行出来るかは、個々人の心に委ねられている。なぜなら、差別うんぬん以前に、全ての人が持っている生存、自由、平等などの最も基本的権利、すなわち、個々人の人権尊重が前提としてあり、差別はその人権同士のせめぎ合いから発生したものであるからだ。

一部の宗教においては、人間は神によって造られたとされている。その真偽はともかくとして、そうであれば、神は何と酷いことをしてくれたものであろうか。様々な人種を造り、様々な言語をばら撒き、更に人間の日々の営みの中に、善と悪があることを授け、挙句に自らが人間の上に立つ偉大なものとして崇めよとした。これでは始めから互いに憎しみ合えといっているようなものだ。
まあ結果として、この神のお陰で、人間は個々人に差があることを学んだのだが、やがて長い長い年月を経て、人間は差別はあってはならないと気付き始めた。それに気付いたのは、息苦しさだった。 差別されたくない。そのために人は口を噤んだ。それが何十年も何百年も続き、何とも嫌なこの閉塞感から抜け出したい考えるようになり、そのためにはどんな人であれ互いに認め合えば良いという結論に至ったのである。

さて、差別について学ぼうとしたり、差別を無くすために何かをしたいと思い立った時は、どうすれば良いのであろうか。差別反対と叫ぶのは容易いが、叫ぶだけでは差別撲滅に至らないことは言うまでもない。何が一番肝要かというと、先ずは全ての人の心の中には、必ず差別心があるということを認めることから始めなければならない。いくら自分には差別心が無いと言って見たところで、それを立証する術がない。人間は神とは違い、微々たる情報や知識しか持たず、ましてや、人の心内を正確に読み取ることなど出来るはずもなく、ただ茫洋とした憶測することしか出来ない。人間には、体内に入った異物を排除しょうとする仕組みを備えているから、自分を守ろうとするのは必然なことである。

差別しないということは、自分の心の中の差別心を如何に制御し、抑えきれるかということに尽きる。しかし、差別心は己の欲望と嫉妬がどろどろと交ざり合った状態から発生するものであるから、 簡単に抑え込めるというものではない。現代社会は限りない欲望の渦の中にあり、嫉妬はその欲望と我欲が一致せぬことから産まれる。従って、全ての欲から遠ざかる、言い換えれば、無視することこそが重要であると言える。
但し、その無視は完全な無視であって、中途半端な無視ではない。 欲を見ず、欲を聞かず、欲を言わない、全てが無しえて完全な無視となる。無視は差別から逃げているのではない。自分の心の中の差別心と闘わずして、社会の差別に立ち向かえるわけが無い。世 の中には差別心を煽って面白がる人もいる。それに乗ってしまうところに差別が起こる。静の姿勢こそが差別撲滅への一歩となる。真の差別まで待ってもよいが、それは全ての神と人間が絶えるまで待たねばならない。