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Paris way essay collection


寛容のジレンマ


「仏の顔も三度」という格言があるが、これは、どんなに情け深い人でも度々酷いことをされればついには怒る。許してやれるのも限度がある。という意味であるが、 自称パリスは、情け深さも程々であるから精々が二度までは何とか我慢もするが、 それ以上になると、以降は一切の関りを絶つことにしている。まあ自分で言うのも可笑しいのだが、この顔はどこから見ても仏様のお顔にはほど遠く、強面の部類で あるから、端から相手にとっては深い付き合いを望んでいないのかも知れない。

まあ歳も重ね、幾分かは若い頃よりも人当たりは穏やかになったと自分では思っているが、所詮は凡夫であるから、腹立たしさを完璧に抑え込むことは出来ず、つい顔に出てしまうこともある。だが、そこから先に踏み出さずに堪えることが出来るのは、これまで歩んできた人生の経験や知識が、最善の手を取ろうと働くかららである。もし短絡的に感情の赴くままに暴走してしまえば、巷のあのキレる人達と同 じことになるだけでなく、最近は、物騒な物を所持している輩もいるわけで、それこそ下手をすれば、取り返しのつかない結果を招きかねない。

まあ腹立たしいことに接することが無ければ、それなりに日々穏やかに過して行けるのだが、今の時代、テレビや新聞それにインターネットを隔絶してしまうわけにもいかず、何とはなしにこれらの媒体に接してきたのだが、先日、テレビから流れて来たニュースにおぞましさを覚えた。それは、三年余りに渡ってシリアで拘束されていたジャーナリストのY某が解放され たというニュースで、本来なら良かった良かったとなるのであろうが、このY某に関していえば、過去にも同様に何度か拘束されたことがある、いわば要注意人物だったのである。にも関わらず、今回もそのことを意識してか、「自己責任で行く」と啖呵を切り、日本政府が渡航禁止区域に指定していたシリアに潜入を試み、案の定と言おうか、またしても拘束されてしまったのであった。

拘束時には何度かY某の映像がテレビで流されたが、それは今まで何度も目にしてい た黒覆面で黒衣を着て銃を持った兵士らしき二人の前で、後手姿で跪かせられ、命乞いをさせられているお馴染みのアラブ系からの配信画で、可哀そうというより、身代金が目的であるのは明らかな場所へのこのこと出掛けて行き、この様であり、しかも自己責任と啖呵を切っているのだから、冷めた目でしか見ることが出来なかった。

今回のY某の解放に至った詳細な経緯は分からないが、日本政府が様々な外交チャンネルを駆使したのは間違いない。今、世界の国々の間ではテロに屈しないというのが明確となっており、そういったことからもこのY某には猛省を促したいところだが、 某テレビ局のコメンテェーターがこともあろうか、Yは英雄だと褒めそやすには至っては、怒りもマックスに込み上げた。ジャーナリスト魂がどんなものか知らないが、Yが危険を省みず誰かを救出したというなら分からないではないが、危険だから行くなという中に入って行って、救出されたという不様を英雄扱いするこのコメン テェーターの頭も腐っているのか笑ってしまった。

当然ながら、自己責任論について蒸し返されたのであるが、Y某の自己責任の解釈は、自己責任と言っておけば格好が良いし、誰からも文句を言われずに済むという便宜上の語であり、枕詞の感覚で遣うものとの認識だったのだろう。昔から日本では、潔さが美徳とされてきたが、Y某からはその一片も感じ取れない。そういえば、Y某が拘束されていた時、本当かどうか知らないが、自分は韓国人だと名乗っていたし、Y某を持ち上げたテレビ局も従軍慰安婦問題のキッカケを捏造し醜態を晒した新聞社の系列だから、潔しさなどあろうはずがない。今の日本社会の中で腹立たしいのは、 こういう輩達が大手を振って闊歩していることが顕著になってきているからで、寛容かそれとも不寛容かのジレンマに陥っているのである。