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Paris way essay collection


人生をリセットする(いじめ考)


今までのことは全て忘れ、毎日が楽しかったあの頃に戻りたい。人は或る日突然、そんな思いに無性に駆られる時があるのだが、一夜明ければ、今までと何一つ変わらぬ自分がそこにいることに気付き、深いため息を溢す。とも角、後先のことや周りのことを何も考えず、今の自分の全てを無いことにして、全く違った別の世界に行ってしまいたいというその一念であれば、この世との断絶、すなわち自らの命を絶てばその願いは叶う。

ただ、もっと軽い感覚で、変わった自分も見てみたいというなら、リセットという手段がある。但し、パソコンのリセットなら、あっという間にスタート時に戻れ新鮮さも覚えるのだが、人の場合のリセットは真っ新な状態にすることは不可能で、身体も精神も、これまでに吸収してきた様々な経験や知識やとてつもない機微な感触でさえ、拭い去ることは出来ず、それは単にイメージチェンジしたいという不確かで浅い願望を満たすに過ぎず、仮にそのための何らかの精神的あるいは肉体的なことを講じてみたところで、それはほんの束の間淡い自己満足に浸って見たに過ぎず、たとえ、いくら昔の自分とは違うとアピールしまくったところで、人から見れば、何も変わっていないじゃない?と一笑に付されてしまう。

さて、社会ではいじめを苦にしての自殺報道が絶えないわけであるが、そこに至るまでの精神的な苦痛は相当であったろうし、少しでも同じようにいじめを受けた体験を有していたなら、その苦しみに同調し、思いはせることも出来るのだが、幸いにも? そんないじめらしきことを全く受けることなく、ここまで生きてきた人たちには、一片の痛みすら想像できず、報道に気を留めることもしないであろう。

そもそも、自分の子供がいじめに遭っているいる、あるいはいじめているということに親たちは気付いているのだろうか。我が子を信頼しているというのは簡単だが、日頃は会話らしい会話も子供と交わさず、二言目には、勉強はしているか、父さんと母さんはお前を信頼しているからな、といつも言うことは一緒。しかしこの言葉がやがて子供の心の負担になり、その反動からいじめに繋がっているとしたら、親の責任は重大であったと言えよう。
生まれたばかりの赤児は無垢であり、この先のことはまだ何も知らない。しかし、いずれは、いじめとは全く無関係でいられるか、それともいじめに深く関わっていくか、あるいはこれらいじめの傍観者になっていくのか定まっていないが、どの道を辿るにしても、そうなっていくのには明確な理由があり、それは親と社会の姿勢ということに他ならない。

親は子供に人としての正しい道、正しい生き方を身をもって教え、社会は子供たちが健やかに育っていくような環境の整備に助力を惜しんではならない。親が子供に何も教えず示さず、己の不満ばかりを子供の前で晒し、社会は遊興を最優先し、子供のことは学校に丸投げする姿勢で、赤子の未来は決まって来る。

昔とは違い、今の社会の人間関係は希薄化が一段と進んでいる。日常の挨拶すらまともに交わせず、何事をするにしても自己を優先し、そのために自分の周りに高い壁を造り、その結果、あざとい人間ばかりが増え、いつしか人間関係は敵味方の関係であるかのような錯覚を起こし始めいじめへと繋がっていく。

人や動物をいじめてはいけないというのが、人間としての基本姿勢であり、先に生を受けた者は後に続く者に率先してその姿勢を見せなければならない。教育論者がどんな立派なことを述べようと、一向にいじめが減らないのは、いじめを一律なものとして捉え機微を見逃しているからである。いつも後出しジャンケンのごとく、いじめ苦による自殺報道に騒ぎ立てる社会は何一つ進歩進歩していない単なる人間の塊に過ぎない。

大小を問わず様々な組織には規律があり、この規律が順守されてこそ、その組織の体を成している。組織の中でいじめが起こるのは、そもそもこの規律が絵空事で間違っていたか、この規律の運用の仕方がおざなりであったからである。いじめの特異性に、いじめを避けるためにいじめに加担する人間がいることに注視すべきだ。だからこそいじめを上っ面だけで見ず、攻撃は最大の防御がいじめの根底にあることに、いち早く気付かなければならない。ここを理解しない限りは、いじめはなくならず、健全な人達で構成される社会は永遠にやってこない。