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Paris way essay collection


差別心と共に生きる その2


人種差別がどうの、ヘイトがどうのといわれても、「誰を好きになろうが、誰を嫌いになろうが」、それは個々人の自由であって、何かの権力で人の好き嫌いを制御できるものではない。世の中には善人もいれ ば悪人もいる。善人ぶった悪人もいれば、悪人ぶった善人もいる。まあ中には悪人が大好きという変わり 者もいるが、一般的には悪人は嫌われ、善人は好かれるというのが、万国共通した認識でなかろうかと思 う。もちろん、その善悪は一律ではなく、如実に確信的なものから、見逃してしまうような機微なものまで様 々で、またこれ等に対する個々人の感受性も一様ではないから、好き嫌いにも温度差があって当然なこと だといえる。

して見れば、人間を創造したとされる神の罪は大きいと思う。多種多様な外見で競わせ、遣う言語もバラ バラで、疎通を拒ませ、そこから更に進歩を見る者と未開のままとする者とで差別化を図った。「旧約聖 書」にケチをつける積りはないが、多分、一人の神が人間を造ったのではなく、沢山の神たちそれぞれが己の能力で人間を造ってみたのだろう。当然ながら、優秀な神もいればそうでない神もいるわけで、その結果が、今の人間社会であると考えれば分かり易い。

人権を唱えたのは神ではなく人間である。これまでの長い人間史の中で,人間同士がいつも諍いや争いを 繰り返し、挙句に命を奪い合うような生き方に疑問を感じ始め、やがて、一歩引き下がれば、生きていく 環境が格段に良くなることを覚えた。そのベースとなったのが人権という互いに相手を認め合うという仕 組みであった。しかしながら、この人権は全民族が一堂に会して生まれたものではなく、それぞれの民族 の中で生まれたものであるから、他民族との間では依然として諍いが絶えることはなかった。

人は僅か80数年の程度の短かい命であるから、人権のみならず、様々なことで好き嫌いがあっても良い。 人間はこうあらねばならないと、初めに神が人間に対してしっかりと植え付けておけば、良かったのだろうが、神の気紛れで玩具レベルの人間を造ってしまったから、未だに人間社会では、差別だのヘイトだのと騒ぎまくっている。

いくら地球規模の理念を掲げてみたところで、これだけの多くの民族が心を一つにすることは難しい。仮に経済や文化水準が同一なレベルにあっても、個々の民族に流れる固有の、特に他民族には理解しがたい価値観は絶対に放棄しようとはしない。中でも特に民族に流れる血が愛国心となって現れる時は、他民族にとって恐怖となることもある。愛国心から出た行為が犯罪に抵触する行為であっても許されるという、「愛国無罪」とい う語が堂々とまかり通るような国は、もはやカルト国家で、差別され毛嫌いされても当然である。

我が国が、これに対して同調することなく騒がないのは、寛容と慈悲の心が日本人の血の中に流れているからである。民族のに流れる血は永遠に変わらない。神がそのように造っているのだから、どうしょうもない。 精々が、神に、次に生まれて来るときは、他民族にとお願いするしかないだろう。