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Paris way essay collection


不寛容な社会


インターネットの記事の中に、「日本は不寛容な社会になって来た」というのがあった。寛容とは、「過ちを咎めず許すこと」であるから、この 記事を書いた人は、日本人は寛容の心を持っている人が多い社会だったのに、近頃は些細なことでもすぐに咎めたりすることが多く、不寛容な 社会に変わってきているとの認識から書いたのであろう。まあ、今流行りのSNSサイトの中も、批判的なコメントが溢れているわけで、そもそもそ のネタを最初に取り上げた週刊誌やテレビが、さも問題ありの姿勢であるから、それを目にした一部の何にでも首を突っ込みたがる暇人や、自 称善人達が騒いでいるのを目にするが、それでもって日本人の寛容さをとやかく言うのは、余りにも短絡的なものの見方ではないだろうか。

日本では確かに、寛容であることは美徳的なイメージとして捉え、寛容な人は「器が大きい」とか「懐が深い」と高い評価を受けたりもする。し かし、何事においても寛容さが優先されるものではなく、社会には規範があり、先ずはこれを遵守することが求められている。そもそも、ある事 象について、寛容とするか否かを持ち出せるのは、当事者かあるいはその代理人となる人であって、テレビでよく目にするような、全く専門外 のコメンテェーターが番組のМCに指名され、したり顔で語る様は何とも嫌らしく見える。番組には脚本があり、寛容か不寛容かいずれかの方 向へもっていこうとするあざとさも腹立たしいが、グダグダになればなるほど、マスコミはほくそ笑むわけで、これをきっかけにSNSで拡散され、 視聴率が稼げるのである。

長い人生であるから、いつも張り詰めた気持ちであれば、ストレスも溜まり病んでしまうこともある。このためどこかで手を抜き何かで発散したく なる。しかしそれを健康的にと考えるのは理想であって、手っ取り早く簡単にと考えるのは、ごく自然なことである。ネットを見れば、不祥事や ゴシップ記事で溢れ、それらを眺めていることがストレスの解消になり、そのうち、自分が正義だとばかりに投稿しだすと、同調者も現れ始め、 いつしか快感を覚えるまでになっていた。

自由謳歌の今の時代であるから、当然ながら発言の自由もあるわけで、寛容不寛容が規制されるものではない。不寛容になったとの発言 は、寛容であるべきとの思想がベースにあることには違いないと思うが、もしそうであるなら、単に巷の騒音レベルに反応するのではなく、社会 環境や教育環境や行政の諸政策など様々なことを精査し、理想とする寛容な日本社会像を明らかにし、記事とすべきだろう。

もしこの記事が、あの人権信奉者であるなら、気持ち悪さしか湧いてこない。まさか、日本人は世界の範たれなんて馬鹿なことを考えてはい ないと思うが、仮に日本人の寛容さの評価が高いとしても、他国がこれを絶賛しなければならないものでもない。その国独自の社会環境があ り、寛容さも様々で、それぞれの国の国民がそれで折り合っているのなら、他国がとやかく言うべきではないだろう。