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Paris way essay collection


ナルシストの感動と勇気


人は夢を見る。そしてその夢が実現するように小さな夢を積み重ねながら、大きな夢の形を造り上げていくのだが、夢と現実のギャップが少しずつ 明らかになるにつれ、ここまでに得られた僅かな夢の形の入り口が、遥か彼方に遠のいていく。そもそも、夢を実現させるまでの道筋はおろか、その 足掛かりとなるようなものは何一つ描けぬまま、己に虫のいいイメージだけを膨らませているのだから、当然のことである。

ところが、そんな状況を一変させるような不可思議な行動を取ろうとする理解に苦しむ人がいる。その人は、人前に出ると、己の夢が既に実現し たかのように振舞い、しかもその夢は価値に溢れるものに粉飾され、「感動と勇気を皆に与えられる」との戯言を臆面もなく語り始めるのだが、「 (人を)感動させること」や「(人に)勇気を与えること」に、どれ程の価値があるのか分からないが、最近、色んな分野で、この二つの語と自分の夢 を合体させ、己語りをすることがトレンド化となっている。

もちろん、感動の受け留め方は人様々で、感受性にも軽重があり深浅があり、有り体に言えば、同じ事象を目の当たりにしても、感涙に咽ぶ人 もいれば、何ら一片の感動を受けた風ではなく、寧ろ嘲笑を浮かべる人もいる。巷では「鬼滅の刃」というアニメが大勢の人感動をもたらしていると、 マスコミは喧伝しているが、所詮は子供向けの漫画がベースであり、いくらマスコミに煽られたとはいえ、余りにも軽過ぎる大人たちの多さに驚いてし まうが、まあ日頃は、遊ぶことと食べることにしか頭がいっていないから、こんなレベルのものに反応してしまうのだろう。

また「勇気」の捉え方も人様々で、高所恐怖症の人に無理やりバンジージャンプをさせようと迫り、その嫌がる様子を捉えて、勇気が無いと囃し立 てるのは、もはや遊びの域を逸脱している。真の勇気とはどのようなことかを、学びも理解もせずに、日常社会の中で散見される勇気擬きとごちゃ まぜにしてしまうから、勇気が必要なところで湧いてこない。勇気は心の姿勢が形として現われる。そして知識がこれに加われば、真の勇気にさらに 近づく。

「感動」と「勇気」の二つの語には、人の心を引き付けるものが何かあるようだ。この語を耳にすると、精神的な充実感や安堵感を覚えるのかもし れない。もし、この前提が成り立つなら、この二つの語を遣いたがる人のイメージが浮かんでくる。自分自身の言動や容姿に並々ならぬ自信を持ち、 自己陶酔に陥り、その終局となるところに「感動と勇気」を据えそれを皆が狂喜を持って迎えるというナルシストが描く容(すがた)である。

平和な社会があり、何を発信しても良い自由がある。しかし、己の発信が相手の心に響き、高い反応レベルに達するためには、生半可な手法や その結果だけで叶うものではない。荒唐無稽な所作に人は感動も勇気も覚えない。人の生き方、人生の歩み方には基本となる姿勢があり、この 姿勢の崩れたところには感動と勇気の影すら見ることが出来ない。そもそも、「おこがましい」ということを理解していれば、この二つの語は、自らの口 から発することは躊躇され、次に期待する画は見ることが出来ないだろう。