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Paris way essay collection


どこへ行きたいのだ日本の仏教徒



日本国憲法の第二十条で、信仰の自由、宗教を信じる自由と信じない自由、そして宗教的行為の自由を認めているわけだが、日本では圧倒的に仏教徒が多く、街を行けば、いたるところで寺や墓を目にすることができ、日常の社会生活の中に、何の違和感もなく溶け込んでいる。

寒空の下、街路樹のイルミネーションは美しさを増し、いやが上にも年の瀬のムードが高まる中、あのジングルベルの音にのってクリスマスがやって来る。今どきの日本人は、「そんな堅いことを言うなよ。楽しければいいじゃないか」という感覚であるから、たとえそれが、信仰していない宗教の行事であろうと、何ら気にするわけではなく、簡単に受け入れ、しかも、自分たちがより楽しめるようにアレンジをしてしまう。

今やこのクリスマスと二月のバレンタインデー、十月のハーロウィンは、日本の老若男女の仏教徒がとてもハイな気分となる大きなエベントとなっている。もちろん、この高揚感を陰で操っているのは、商魂たくましき人たちであることは、ほとんどの人は分かっているが、それを口にする人もほとんどいない。裏を返せば、これが今の日本人の宗教観の薄さと、何事も自由とする楽観思想が、日本社会に深く浸透していることを表している。

さて、宗教観の薄さも人それぞれで、自分の家の菩提寺がどこにあるか知らない人もいれば、仏壇を持っていても、ただ置いてあるだけの人もいる。また中には、寺は、今はやりのパワースポットの場所としての認識しかしていない人もいる。大抵の人は自分の家が仏教であることは知っているが、その仕来たりみたいなところに入って行くと、バタッと止まってしまう。
大きな括りでいうと、キリスト教のカトリックとプロテスタント、イスラム教のスンナ派とシーア派、日本の仏教でいえば、禅系と浄土系。これぐらいは学校で教えているので、誰でも知っているが、これでは余りにもアバウト過ぎる。それぞれの宗教は、長い歴史の中で、その宗教としての固有の歴史を持っており、その核となる教義であっても、揺るぎがあったかも知れないし、戒律の見直しが繰り返されたかも知れない。

時代は生き方を変え、生活を変え、人の心を変える。豊かさが増すと欲が膨らむ。宗教の基本は信仰であるから、欲があるところに宗教は育たない。我が家は、親鸞聖人を宗祖とする真宗大谷派であるが、私は敬虔な大谷派門徒というわけではない。十数年前に母が死に、それまで母がしていた門徒としての役割を引き継ぐことになったが、巷の享楽にうつつを抜かしていた匹夫であるから、何も学習はしておらず、母がしていたことを思い浮かべながら、見よう見まねでここまで来た。

他宗教のことは何も知らないが、浄土真宗は私に合っている宗教だと思っている。他力本願であり、厳しい修行をしなくても、死ねばお釈迦様の一族に加えて頂ける。仏壇は阿弥陀如来を祀るところと明確化され、浄土と日々の生活を繫ぐものとなっている。また、冥福や霊や穢れなどのおどろおどろしい言葉も出てこないから、日常の社会生活も至ってスムーズだ、

残された命は短く、何年か後には、仏壇の中に私の法名が吊り下げられる運命である。多分その後は、妻が引き継いでくれると思うが確かなことではない。私たち夫婦には子供がいないから、私も妻も死ねば、その後はどうなるのだろう。阿弥陀仏に尋ねても、答えは返ってこない。まあいいか、その時は、夫婦揃って仏の国にいるのだから。

     私は、真宗大谷派以外の宗教を信仰しない。

     私は、真宗大谷派以外の宗教を学ばない。

     私は、真宗大谷派以外の宗教施設に用もなく入らず、また利用もしない。

     私は、真宗大谷派以外の宗教を批判しない。

     私は、他宗教を信仰する人と争わず、宗教についての論争もしない。

                                合掌