パリス(Paris)流エッセイOPEN 06:00~CLOSE 24:00

許されざる人


日本社会が息苦しく何かに拘束されているかのような不快感を感じ始めたのは、あの「日本は日本人だけのものではない」という何とも不気味なフレーズを耳にした時からだったと思う。あの時、日本人は「たわけた事をぬかすな」と声を大にして言うべきだったが、そのフレーズの意味するところの企みを何ら推測することなく、「あっそう!」と往なしてしまったばかりに、日本人擬き達が勢いづいてしまった。
いまや擬き達は日本のあらゆる分野・階層に侵蝕し、情報の漏洩や捏造、印象操作やレッテル貼りなどありとあらゆる手段を駆使し、日本の瓦解を企て、あまつさえ日本を乗っ取ろうとしている。

差別がどうのこうのと語る積りはない。小さな差別らしきものは日常生活のどこにでも存在する。自分は決して差別はしていないと思っても、相手の受け取り方次第で差別だと指摘される場合もある。要は単に好き嫌いなのだが、嫌い度100%であっても、それを言動に出さなければ、差別だと批判を受けることはない。
人には善人もいれば悪人もいる。全ての民族・人種がそうであって、日本人だけが善人で特定の民族だけが悪人だというわけではない。どうしても合わない人がいるのだ。合わなければスルーすれば良いが、そう簡単にいかないのがこの社会だ。スルーは関わらないということではない。ある時は我慢を強いられ、ある時は恫喝されたりもする。つまり、スルーすることさえも批判の対象とされるのだ。

人の一生は自分に付けられた名前を受け入れることから始まる。そして己の言動がその名を高めることも、蔑まれることになることも知るようになる。自分の名前が気に食わないと思う人もいるだろうが、名前は身体と一体であり心と一体であり、自分と言う存在を他の人に知らしめる証ともなっている。
さてこの社会には、擬きという異質な人たちがいる。擬きは在日外国人でありながら、日本人名(一般的には通名)を名乗り、さも日本人であるかのように振る舞う者たちを指し、圧倒的に隣国人に多い。かの民族には誇りが欠如しているようだ。誇りがあれば通名などを遣わず、堂々と本名を名乗るだろう。この擬きの事を持ち出すと、即座にヘイトとか差別だと反応する人がいるが、始めからヘイトありきの姿勢こそが、ヘイトそのものに繋がっているのだが全くそれには気付いていない。

最近のマスコミの偏向報道には辟易する。日本は寛容の国であるが良識は寛容の中から生まれてこない。駄々をこねる子供を放置していれば、愚図れば思い通りになると勘違いする様がある。今マスコミには多くの擬きが跋扈しており、彼らの根底には反日という姿勢で一致しているが、なぜかその大嫌いな日本から出て行こうとはせず日本に住み続けている。それは日本ほど自由を満喫出来る国は無いからだ。

日本は日本人の国であり、日本人擬きの国ではない。

日本に流れる風は日本人の心を帯びた風であり、澱んだ擬きたちの風ではない。息苦しさを感じるのはこの澱みに他ならない。日本人が日本にいながら、息苦しさを感ぜねばならないというのは異常である。日本人は段々鈍感さが増しているようだ。その鈍感さが次の世代へと受け継がれると思うと恐怖さえ感じる。許されざる人、それはあなたのことだ。

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